古紙マークの覚醒日記

自分の覚醒していく感覚を言葉にしたい。

否定の肯定

こんにちは古紙マークです。

今回は否定について考えていきたいと思います。

否定と言っても自己否定と他者否定の二つに場合分けして述べていこうと思います。

私は自己否定することに賛成しています。なぜなら自己否定とは柔軟性と紙一重であるからです。学習の中での自己否定とは重要であり、独りよがりな考えから自己否定は解放し、更なる改良を加得る要因となるからです。

 私も含めひいては人間は負荷の高い処理をすることを恒常性という安全装置が妨げていると感じざるを得ない。しかし、自己否定とは自分の行動、人格、特徴を拒絶することで自分に対し負荷の高い訓練を課すことができるのでしょう。例えば、自分のもっている能力に満足している人間よりも、自分を否定し競合他社とどう戦うかを常に考えさせられている背水の陣で挑んでいる人間の方が本能に逆らい、強さや秀でているものを得ることができるのではないのでしょうか。

 コンフォートゾーン(いつも通りで快適なところ)から抜け出す一つの要素が自己否定であるのかもしれません。自己否定にどこまで付き合い切れるかが努力の燃料と関係してくると思うのです。

 他者否定、定義は文字通り他人から否定されるということとする。一番こじらせると厄介なのがこの他者否定であると強く感じます。扱いは難しいですが、対策がないわけではありません。さっきのように、努力するエネルギーに変換するか、自分の感情を認めるかのどちらかだと私は思います。

 努力エネルギーに変換するとき、否定してきた相手に反撃するのは負のエネルギーの使い方だと思うのです。このエネルギーを自分を高めるものに分配するのが得策だと思います。そして、そうやって自分を正攻法的に高めることで否定してきた相手すら小さく見えてきて、その気になれば法的措置すら取れるくらい、相手と次元の変化を認識できるでしょう。

 他人からの否定を自分のエネルギーに変換できる、まるでブラックホールのような人が一番強いのではないのでしょうか。