古紙マークの覚醒日記

自分の覚醒していく感覚を言葉にしたい。

知能スポーツの言語化1

負けないこと、攻撃より守備

私は最近麻雀をし始めた。そこで大事になってくるのは、相手の待っている牌(カードゲームでいうカード)をおおよそ検討をつけることである。

つまり、自分が切った牌によって相手が上がらせないことが大事である。

それの意味することは自分が上がるという攻撃より

自分が他のプレイヤーに上がらせることを少なくする守備が何よりの大事である。

孫氏より、

「己を知り、敵を知れば百戦危うからずや」

ともいうように、負けないことを私は重視したい。

知能スポーツにおいて

eスポーツ、ボードゲーム、なんでもいいが

スポーツにおいて操作を覚えたら次にロジックを追うことを勧めたい

将棋の駒の動かし方、麻雀の役、テニスのラケットの振り方

これらを覚えてやっと土俵に立てる。

理論的スポーツのススメ

初期操作を覚えたら次にこの分類で考えてほしい。

それが

事実

理由付

仮説

である

いきなり何を言っているんだ、と疑問に思うかもしれませんが

ひとつずつ説明していきます

事実

事実は文字通り、定義や、どういうことを意味しているかです。

初心者の時に多く知る必要があるので、

ここでは知ったことを関連させる、心理学用語で、精緻化リハーサルと言いますが、

それが重要です。

理由付(ロジック)

これは最初に学んだ事実、知識を生かす地盤のようなもので、

普遍的なロジックのことを指します。

数学の解き方で共通していることや、

麻雀で言えば、スジと呼ばれるもので、4が河に捨ててあったら、1、7が安全だろうという事実で

相手プレイヤーがリャンメン待ちの前提において有効である。

これの理由付に当たるのが相手がリャンメン待ちというものである。

これを他のものにも応用させて考えるのである。

仮説

これは今までの事実、理由付を生かしたものである。

例えば

事実がx^2≦0だとしたら,

理由付が

-1かける-1をかけると1になり

1かける1をかけると1であり

0かける0は0であるから

仮説がxが実数全体でないか。と考えることができる。

推論の注意点1メタ認知

感情の痛みを伴う時はそれは考えているというより、悩んでいる。

メタ認知的とは、

他人にアドバイスを送るように

自分を見おろすように

考えることです。

この能力を意識的に向上することにより、冷静な判断をすることができる

メタ認知=サイコパス

余談になりますが

私が理数科目の勉強をしていて思うのは

感情を取り除き推論すること、サイコパス的であることだと思うのです。

ひたすら直前に頭に残っている公理や公式を頭から引っ張り出して

目の前の問題を解いていく。そんな感覚が重要だったりします。

それがいわゆる、メタ認知的だったりするのかなと思うのです。

推論の注意点2 中立であること、バイアスがかかっていることを知る

どっちが正しいかなんて、最初はわかるはずがありません。

ですので話半分で推論しましょう。

絶対自分が正しいという推論はあり得ず、

仮にあったとしても、

反対側からみて、どちらの方がより事実があるかを知ることが第一歩です。

人間は信じたいものを信じたいように理由付したがるので、

情報収集には気をつけたいです。

私もブルーライトが否定されたものであるにもかかわらず、

話してしまい否定され、はづかしい思いをしてしまったことがあり、

自分のできなさ、ダメさがよくわかりました。

まとめ

これはある種自分のためにこのブログを書いているところもあるので、

自分がある程度納得して書いています。わかりずらいことがあったら、

報告してもらえると補足させていただきます。

ここまで読んでいただきありがとうございます。

科学的、心理学的に正しい勉強法や

それを元にしたより実践的な工夫を

これから書いていきたいと考えているので、是非ともお待ちください。

コカコーラゼロシュガーと人工甘味料

コカコーラゼロシュガーの感想

私事ですがあまり甘いような清涼飲料水を飲まないのですが、

コカコーラゼロシュガーを買って飲みました。

疲れてる時に飲んだことも相まって、

ビーチで女の子と遊んでいるような甘酸っぱいフィーリングを感じました。

小学生以来コーラを飲んだりしていなかったのですが、

甘さが中々に爽快ですな。

人工甘味料

腸内環境が弱い方がとると悪影響になるとメンタリストDaiGoさんが言っていました。

自然に近い食品がやはりいいというのは内臓に負担がかからないのでしょう。

専門的な知識で分析できるようになりたいとすごく思いました。

日々謙虚に勉強していきたいです。

受験勉強の遊び方 考え方の巻-娯楽性-

受験勉強の遊び方 考え方の巻

前回に引き続き受験勉強の遊び方をやっていきたいと思います。

間違ったことや、意見のある方は返信をしていきたいので皆様のご協力をおながいします。

娯楽性と自己管理

受験勉強を遊ぶに従い、娯楽性と自己管理が肝だと分類します。平たく言えば、楽しさと自分を正確にコントロールする能力が遊ぶためには必要です。

楽しい学びにする

娯楽性の方法について述べていきたいと思います。

娯楽性に必要なのは結果の出る効率のいい勉強法とゲーム化です。

効率のいい勉強法、それは少し辛いが結果が異常に出るのが早い

効率のいい勉強法は現在たくさん世の中にあり、私もこれからガッツリ紹介していきたいと考えていますが、効率のいい勉強法は想起と反復、つまり思い出すことと繰り返すことです。

思い出すことが効果的なのはpubmedなどの論文で数多く証明されているので、言及は今のところは避けますが、正直に言うと結構辛いです。しかし効果が出るのは弾丸の速度で速いです。

弾丸の速度で結果を出すには、思い出すことと異常に繰り返すことで脳みそに直接インストールすることができてとてもいいです。

結果が出ることでまたやりたくなります。

他にもいいテクニックはあるのですが、この巻ではここまでにしたいと思います。

まとめ

今回は娯楽性を扱いましたが、何が重要だったか思い出せますか?

そうですね、想起と反復による弾丸の速度の勉強法でしたね。その勉強法が楽しさを生み出し、遊ぶ第一歩となりますね。

 

受験勉強の遊び方

 

受験業界の副作用

受験勉強や課題なんてものは受験産業の廃棄物で子供を真に考えられていない。

本当に子供のことを考えるのであれば、もっと全体の知の底上げを科学的な学習を以て競争をさせず伸ばす教育の方がよっぽどいいと私は思う。

もちろん、詰め込み型も悪くはないが、偏差値や、点数で判断し、学歴にしがみつくような考え方になってしまう。学歴はツールである。学閥という言葉があるように、大学という環境で自分の専門分野また、現実問題、就職口を見つける手段である。

競わせて、負ける人を作る教育とはいったい何であろうか。

しかし、今の制度に不満を言うだけなら誰でもできる。ならばその業界で最適解を出すのが我々のできることではないか。

そこで受験の遊び方の出番である。

好きなようにすれば良い

内発的動機付けという認知心理学の世界でのやる気に関する用語があり自分決めたものの方がやはり圧倒的に強いのである。

目標としてはトップアスリートを目指すと良い。彼らはある程度まではコーチや監督から学ぶがそれ以降は自分で競技の法則を見つけようとする。

私はあくまで監督、コーチでありたい。

しかし、中途半端なものを教えたくはないのでこうして綴ることにした。

理論を示す

勉強には万人に使える技術、テクニックがある。

具体的には実験で得られた理論である。

それをこれからお伝えしていこうと考えている。

なるべく更新していきたいので応援の方をよろしくお願い致します。

千日稽古、水

質の高い努力の威力は時間が経つにつれて雪だるまのように発揮する。

故に質の高い努力と努力した時間の大きさが肝になっている。

 ところで、この世で一番強い物質、武器となるのは何であろうか。

私は水だと思う。なぜなら、ウォーターカッターのようにいとも簡単に物を切ることができるからだ。勿論、水はそのままの状態では物を破壊するようにはできていないし、むしろ破壊とは無縁に感じるが、ウォーターカッターのように小さな穴から出力を上げて噴射すると石すら切れてしまう。しかし、勘違いしてほしくないことがあり、それは、水滴石穿のような水の力を人が切断することに特化させたことを記したい。

水の特性として何百年という単位で見た時、成果が出る。しかし、人間は持ち時間が少ないので、意図的に努力のベクトルとどこの範囲に小さく絞り一点突破するのか考える必要がある。この話を分解すると水滴石穿の特徴である継続の力、水の出力である努力の量、どのくらいの小さい範囲で費用対効果を最大化させるのか、他にもどの方向に向けるかなど多岐にわたる変数がありますが、主要なものは出せたと思う。(詰めが甘いかもしれないが)

 書いてみての感想を述べる。私もまだまだ浅いものを書いているが、なんとか真理を自分なりに思考の海に潜っているつもりだ。読者様の批判を受け止めたり、賛成の声に救われたく思いますので、是非書き込みをお願いいたします。

原物と複製の違い

原物(独創性やオリジナル)と複製の一番の違いはその業界、市場に対しての理解度です。なぜなら原物は何もない状態から生み出す能力を有していますが、後者は例え原物にどれだけ近かろうが、原物がないと複製し続けることができないからです。言い換えるならば、原物ありきの状態であるのです。

 では、原物を生み出せるようになるにはどうしたら良いのでしょうか。これは私の解答ですが、理解して複製することです。ただ同じことをするだけならば誰でもできますが、なぜ原物が原物たらしめているのか、その理由を探ろうと必死に足掻いてください。その結果、初めて一級品の居様だけではない裏の見えない法則や論理あるいはある種の美しさに気づくことでしょう。

 アンダースエリクソン氏の著書である『超一流になるのは才能か努力か』の中で将棋やチェスの強さに関わっているのが棋譜(音楽で言う楽譜のような駒の一手一手の動きを記したもの)でなぜその手を打ったのかを分析することが非常に有効であると記載されていました。ただ眺めるのではなくなぜそんなに強くあるのかを自分なりに分析しようとする姿勢が重要なのですね。

 複製と一口に言っても、ただ真似するものから原物を丁寧に解釈し真に複製するものまで色々あります。誰にも到達できないと思う次元まで走り切らない限り賢明なものから盗まれてしまうのではないのでしょうか。どれだけ見破れないようにしたとしても、最後は、高次元の戦いになればなるほど根性論もとい、量の勝負になるのではないのでしょうか。ご拝読ありがとうございました。

否定の肯定

こんにちは古紙マークです。

今回は否定について考えていきたいと思います。

否定と言っても自己否定と他者否定の二つに場合分けして述べていこうと思います。

私は自己否定することに賛成しています。なぜなら自己否定とは柔軟性と紙一重であるからです。学習の中での自己否定とは重要であり、独りよがりな考えから自己否定は解放し、更なる改良を加得る要因となるからです。

 私も含めひいては人間は負荷の高い処理をすることを恒常性という安全装置が妨げていると感じざるを得ない。しかし、自己否定とは自分の行動、人格、特徴を拒絶することで自分に対し負荷の高い訓練を課すことができるのでしょう。例えば、自分のもっている能力に満足している人間よりも、自分を否定し競合他社とどう戦うかを常に考えさせられている背水の陣で挑んでいる人間の方が本能に逆らい、強さや秀でているものを得ることができるのではないのでしょうか。

 コンフォートゾーン(いつも通りで快適なところ)から抜け出す一つの要素が自己否定であるのかもしれません。自己否定にどこまで付き合い切れるかが努力の燃料と関係してくると思うのです。

 他者否定、定義は文字通り他人から否定されるということとする。一番こじらせると厄介なのがこの他者否定であると強く感じます。扱いは難しいですが、対策がないわけではありません。さっきのように、努力するエネルギーに変換するか、自分の感情を認めるかのどちらかだと私は思います。

 努力エネルギーに変換するとき、否定してきた相手に反撃するのは負のエネルギーの使い方だと思うのです。このエネルギーを自分を高めるものに分配するのが得策だと思います。そして、そうやって自分を正攻法的に高めることで否定してきた相手すら小さく見えてきて、その気になれば法的措置すら取れるくらい、相手と次元の変化を認識できるでしょう。

 他人からの否定を自分のエネルギーに変換できる、まるでブラックホールのような人が一番強いのではないのでしょうか。